祖母が他界しました。数えで100歳!全く苦しむ事なく眠るように逝き、医師からは老衰の診断をいただきました。堂々たる大往生でした。
先日、親族だけで葬儀が行われ、荼毘に付されました。
百歳まで生きたとあって、悲しみの余り慟哭すると言う事はないものの、やはり別離の寂しさは拭えません。ただただ祖母への感謝の念、そして大正、昭和、平成、令和と4つの元号の時代を生き抜いたその人生に、思いを馳せました。
葬式というのはいつも、「人はいつか死ぬ」と言う、これ以上ないくらい当たり前の、にもかかわらず、忙しい日々を過ごす中で目を背けている事実を、ガーン!と容赦なく思い知らせてくれます。
「色即是空(しきそくぜくう)」、色・形があるものは全て空=かりそめの姿であり、いつかは滅びる。山はいつも同じように見えても、そこに生える木々は必ず朽ちていきますし、川はいつも一見同じ姿でも、そこに流れゆく水は二度と元どおりに戻ることはありません。
ヒトのことを”万物の霊長”と言いますが、私は人間という動物の最も優れている点は、あらゆる動物の中で唯一人間だけが「自分はいつか死ぬ」という事を認識できることだと思います。1年は365日、10年は3650日と考えると、意外と残された時間は多くありません。1日1日を大事に、悔いのないように過ごしたいものです。
ただ、死ぬ時に「ああ、あれをやっておけば良かった」と後悔したくないからと、自分の関心ごとに片っ端から手を出したところで畢竟、心から満足することはできません。歴史上、関心ごとに片っ端から手を出したマルチな偉人といえば、レオナルド・ダ・ヴィンチや平賀源内が想起されますが、ダ・ヴィンチや源内が死ぬ間際に「俺はやりきった!」と思えたかと言えば、おそらく「ああ、そう言えばあれをやり残した」という思いが、まだまだ尽きなかったのではなかろうかと推察します。
結局のところ「もっと、もっと」と求めるのではなく、「自分はこれで足る」というを知り、自分に関わる全ての人に感謝し、周りの人を幸せにする人生を送る事でこそ、いまわのキワに「ああ、俺はやりきった!」と思えるのではないでしょうか。
私は今年で40歳。体躯は頑健、精神には気魄がみなぎり、まさに人生の最盛期を迎えようとしています。1日を大切に生きて、商売を通じて周りの人を幸せにし、日本と台湾ひいては世界の平和に貢献し、人を育て、人生を楽しみ切って死ねるよう、命を燃やします。
ばあちゃん、安らかに。11月22日、”良い夫婦”の日に逝くのが、何ともばあちゃんらしいです。
大好きな大好きなじいちゃんと、あの世で仲良くやってください。
合掌