終戦記念日。私が幼少の頃はまだ、大東亜戦争を戦った軍人・軍属の方々も元気バリバリで、多くの人からいろんな話を聞かせてもらえました。しかし今はほとんどそんな機会もありません。全国各地の戦友会もかなり少なくなっていると聞きます。
私の祖父ももう亡くなって10年余り。そんな祖父の遺品の中から、つい先日一枚のメモがみつかりました。几帳面な祖父らしく、自分の戦歴を忘れないよう、日にちまでキッチリと記してありました。

多くの人にとっては何のこっちゃ分からんメモかもしれませんが、歴史好きの私にとってはまさに宝物。極寒の満洲の北辺から、灼熱のニューギニアのジャングルに転戦した、若き日の祖父に想いを馳せ、胸を熱くしておりました。
祖父は住友金属の技術者で、メモにある通り、まず関東軍隷下の第9野戦航空修理廠要員として満州北辺のチチハルに。

チチハル(齊齊哈爾)は北京や平壌、そしてハルビンよりもさらに北、冬は零下20度を下回る、満蒙国境に近い都市です。

入隊したてでしょうか。2等兵の階級章が見えます。
チチハルののちは、南方軍の第21野戦航空修理廠要員としてニューギニアに、ともに航空機の整備兵として徴用されました。

ニューギニアから豪州方面を攻略する作戦でした。
昭和19年(1944年)といえば、日本軍がすでに制海権を喪失し、輸送船団がアメリカ潜水艦に数多く沈められる中で、敵の哨戒網をかいくぐり無事ニューギニアに上陸できたのは、幸運だったとしか言えません。
そして幸か不幸か、ニューギニアに着いた頃には、日本軍の航空機は既にほとんど残存せず。ジャングルに潜んで魚を釣ったり芋を育てたりしつつ、米英蘭豪を相手に持久戰を展開しました。激戦地であるニューギニアですから、祖父の腕には爆弾の破片を受けた大きな傷痕がありましたし、無事生還できたのは、これもまた幸運だったとしか言いようがありません。
また、そしてメモの最後に「昭和21年5月27日名古屋港上陸」とある通り、終戦してなお1年近く、ジャングルに潜んで持久していた事になります。この間に疫病や飢餓、地元先住民との衝突で亡くなった将兵も少なくありませんでしたので、ここを生き抜いたのも、更なる幸運だったと言えます。もし祖父が戦死・戦病死していれば、当然ながら私はこの世に産まれておりません。
さて、返す返す、日本という国は愚かな戦争をしたものです。敵戦力を過小評価する希望的観測。科学を個人の鍛錬で超越しようとする精神主義。縦割りで人事が硬直した官僚主義。現場を軽視し会議室の空気で物事を決める事なかれ主義。目の前の戦術に固執し、無駄な勝利を積み上げるうち、自ら袋小路に入っていく戦略性のなさ…..。戦争は、負けるべくして負けたと言えます。
しかし考えてみればこれらは全て、いまの日本と何ら変わっていません。政治家や企業がたびたび犯す組織的な不祥事も、全部日本が過去に犯した失敗と、背景にある要因は共通しています。われわれは、過去の失敗に何も学んでないのかも知れません。
8月15日。メディアは戦争を特集し、学校では平和教育が行われます。しかし「もう戦争はしない」と言う非戦の誓いを新たにする、それだけでは何の解決策にもなりません。また同じ失敗を繰り返さない為にはどうすれば良いのか、なぜ日本は失敗したのか、過去を振り返って検証する日にしたいものです。